【4574号】イースターメッセージ

ローマ人への手紙 八章一~一一節

復活と生まれかわり 李 孟哲

復活について

キリスト教が宣べ伝えている主イエス・キリストの復活のメッセージはキリスト教信仰の中の最も大事なことです。
しかし、一般の人々はそれを理性的に検証しようとしますので、なかなかキリスト教に入信することができません。復活は本当にあったのか、人は復活できるのか、復活する必要があるのかというのが彼らの疑問です。確かに、人類の歴史の中で、それを経験したことはありません。
聖書の中に何人かの復活について記されていますが、彼らはたとえ一度復活しても最後にはやはり死んでしまったのです。ですから、人の理性のみで判断しますと、復活の事実は受け入れ難いものです。
しかし、パウロはきっぱりと言いました、「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(Ⅰコリント15・14)。
人の理性から見ますと、求道者にとってはジレンマでも、救われた者にとっては信仰の奥義なのです。復活の信仰は理性的に説明できないかもしれませんが、理性を超えたところでその奥義を理解し、受け入れることができるのです。

理性は人の死の問題を解決できない

日本で生活しているこの数年間、私にとって最も悲しく釈然としないのは鉄道での人身事故です(台湾ではあまり起きないのだが)。大抵自殺しようとする人はきっと理性的には解決できない困難に遭って、死によってすべての悩みや苦しみから解決できると考えたからだと思います。しかし、実際はその逆です。人の悩みや苦しみは肉体的な部分と霊的な部分があり、最後には必ず霊的な苦しみに変わるのです。たとえ人の肉体が死んでも霊が滅びないので、霊の苦しみは解決できないのです。なぜなら、もし人が肉体の死をもって霊的な苦しみを解決できれば、動物と何ら変わりがないのですから。もし、肉体の死をもって霊的な苦しみをも合わせて解決できれば、人生がよっぽど楽になります。でも、実際は不可能なことです。これはちょうどイエス様が話されましたたとえ話の中に出てくる金持とラザロの死後の世界のようなものです。金持が死んで肉体が滅んでも彼の霊は永遠に脱出できない、終わりのない苦しみの中に入ってしまったのです。このような苦しみは、肉体の死によって解決できるものではありません(参考ルカ16・19~31)。
パウロも「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6・23)と明言しました。パウロがここで言う“死”は 勿論肉体の死を指しているのではなく、霊的な命の惨めな状態を言っているのです。人は霊的に解放されて、はじめて悩みや諸々の問題を解決できるのです。これは即ちパウロが言っているように、神は人にとって愚かで理解できない言葉を用いて、救いにあずかる者に力を与えたのです。この救いは簡潔に言えば主の復活を信じ、且つ主の復活によって信じる人に生まれかわりをもたらすことを信じることです。復活と生まれかわりは一つの事柄の両面なのです。主イエスがユダヤ人指導者ニコデモに言われたように「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3・3)。

人には復活、生まれ変わりが必要

有名な映画俳優トム・ハンクス(Tom Hanks)氏が二〇〇〇年に主演した“キャストアウェイ”(Castaway)という名の映画の中で、宅配便“フェデックス”(FedEx)のエンジニア チャック・ノーランド(Chuck Noland)の役を演じていました。
彼は出世をしていました。しかし、ある日出張旅行の途中、チャックの乗った小型飛行機が事故で海上に墜落してしまい、彼は一人で無人島に流されました。文明的な生活から切り離され、人と人の関わりも完全に断たれた彼は“生きる”ことのみが生活の目的でした。孤島で原始的な生活を四年間送った後救出されましたが、彼の人生観がそれによって大きく変わりました。彼は人生の目的や意義について考えるようになり、全く新しい目で仕事や生活に取り組むことができました。
確かに、人はもし、命について、霊的、肉体的な生活面から考え直すことができなければより多くの罪や苦しみを重ねることになります。これは律法の定めと人間がそれを実践する上での戦いでもあるのです。人間の歴史的経験から見ますと、人は神の御旨を律法の条文に変え、律法の要求を通して人が自分の欲望によって犯した罪を解決し、人の行いを神の要求に一致させようと試みました。
しかし、実際、律法は人の欲望、人の罪を解決できないばかりか、人が律法を守ろうとするところで己を見失ってしまい、その結果、より多くの罪を犯すことになります(ガラテヤ5・17)。それゆえ、神はイエス・キリストの死と復活を通じて、人に赦しと寛容の愛を表し、また復活の権威をもって人の命の難題を解決してくださったのです(ローマ8・1~4)。
イエスの死からのよみがえりは私たちに生まれかわりの答えと希望を与えてくださり、また、その復活の権威と力によって私たちの形あり、限りある命を徹底的に変えて下さったのです。

復活はあの世のことであり、またこの世のことである

イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が人の内に宿ってはじめてこのすべてを新しくする御霊が人を死ぬべき惨めな状況から生かしてくださり、新しく生まれ変わらせてくださるのです。このような救いは、肉体の命が終わってから始まるのではなく、生きているこの時点から新しくされるのです。肉体が滅んでから始まる霊的な命を望むのではなく、イエスがキリストであり、救い主、復活の主であると信じるこの時点から霊的な生活が始まるのです。このような命が人を肉のことを思う気持ちから霊のことを思う気持ちへと変えてくださるのです。肉のことを思う生活から霊のことを思う生活へと変えることのみ、本当の命と平安が得られますし、この救われた新しい命が永遠に続くことができます、これが復活なのです。イエスが言われました、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、 いつまでも死なない」(ヨハネ11・25~26)。

信じれば与えられる

皆さん、復活のメッセージは 不思議ではありますが、理解できない、受け入れられないものではありません。人間は己の欲望によってもたらされた苦しみに戸惑ったりしているところを見ますと、このような苦しみや悩みは理性の次元ではなくなっているのです。もともと人間は新しいミレニアム、二十一世紀に強い憧れや期待を持っていましたが、実際に入ってみますと、想像していた完璧さや安らぎがないばかりか、災難や戦争が絶え間なく襲ってきます。理性がすべての問題を解決できる万能の薬ではないことが明らかです。現世の問題も解決できないならましてや人間にとって神秘的な命の問題はなおさらです。
イエスは死をもって私たちに平安の確証を与えてくださいましたので、主の力を信じ、その教えを守るなら主からの平安が与えられるのです(ヨハネ14・26~27)。復活の信仰は私たちの理性を超えているかもしれませんが、理性で信仰を選ぶことができるのです。「信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイ21・22)と主イエスは約束されています。
(東京台湾教会牧師)

【4573号】終わりから初めへ

別掲の如くJNACの閉会総会に出席してきた。戦後60年を様々なかたちで記念される年だが、IBCから数えて57年間、北米・カナダの教会が日本の福音宣教のために捧げた大きな祈りと実践の実は日本伝道史に不滅の光を放ち、語り継がれていくものであろう。天に移された先達をはじめ多大の貢献をされた宣教師とその家族の方々に心からの感謝と敬意を表してやまない。主が豊かに報いて下さるように。
問題はJNAC以後である。大きな組織連合体としての関係は終ったが、個別の新しい関係はこれから始まる。
教会と教会の関係がより現実的、直接的、具体的に結ばれ各個の教会に影響を与えるようなものとなるように関係者がみんな願ったうえでのJNAC解散である。
北米・カナダ八つの教派、教団が日本基督教団及び在日大韓基督教会とそうした新しい関係に入っていく。
そのため日本基督教団も新しい機構改正を考えねばならぬが、世界宣教の生きた関係によって教団自身が変えられ、成長させられていくことを信じてやまぬ。
特に次世代対応型として青年、青少年同士の交流をも視野に入れての新しい協約結びであるはずだ。現に総会以後訪問したディサイプル教団、UCC教団とはそうした方向で将来のビジョンが語られた。
一つの終りが一つの初めに通じていくことを祈る。
(教団総会議長 山北宣久)

【4573号】人ひととき 飯田英章さん

ただ今単身赴任中

「ただ今、単身赴任中です」と飯田さんは屈託がない。火曜夕方から木曜夕方まで東京・八王子の自宅で過ごし、夫人手造りの五日分の食べ物をアイスボックスに詰めて教会に戻る。生まれも育ちも東京で、一人暮らしは初めてだそうだが、「野菜も自分で作っていますよ」と教会菜園を見せてくれた。
都庁勤務時代、聖書研究会に所属していた飯田さんは、定年を迎えた際、第二の職場を薦められたが、「神学の勉強をしたいから」と固辞して東神大に学部編入し、大学院を卒業して、昨年春、九十九里教会に赴任した。都庁聖研時代の仲間が多数礼拝に出席して激励してくれたという。
六〇歳を過ぎて、何故牧師の道を志したのか。「娘を事故で失ったことがきっかけかもしれない」と飯田さんは淡々と語り、「昨日もたまたま、ヤイロの娘のくだりを読んでいたんです」とつけ加えた。
九十九里教会は一八八三年(明治一六年)、創立一二一年を数える由緒ある教会で、一八八七年建設の木造の会堂は、さる九九年、登録有形文化財の指定を受けた。明治期、会員が百人を数えたこともあったそうだが、現在平均出席一七、八人、無牧の時期もあった。近隣の商店街ではシャッターを下ろした店も多く、この一帯、伝道には厳しい状況が続いている。
「ご多分に洩れず高齢化は顕著で、七〇代が大半を占めるが、信仰暦五〇年に達する強い信仰を持っていることに励まされる。しかも、殆どが同じ教会で過ごしたことは奇跡的なくらい」という。昨年のクリスマス・コンサートは、教会から出てケアセンターで行い好評だった。老人パワー健在な点は、全国諸教会共通のことだろうが、こうした話に接するとやはり勇気づけられる。
伝道師二年目。「皆に良くして頂いて本当に有り難いことだと思う。今、非常に楽しい日々」と飯田さんは静かに燃えている。

【4573号】ボランティア活動報告 東海教区

東海教区常置委員会は関東教区からの要請に応え、「中越震災救援活動」を決議し、支援ボランティアを募って、04年11月9日(火)より12日(土)まで派遣した。
募集に応えたボランティアは延べ21名であった。十日町教会が救援活動の地域センターの一つに指定されており、私たちは会堂を寝食の場所として利用させて頂いた。
ボランティアは十日町市、小千谷市、川口町などに開設されている救援センターに出向き、登録をして様々な救援要請に応えて各地に派遣されることになった。主な任務は震災で散乱状態の家屋の後片づけ、炊き出しの手伝い、壊れた家屋の補修などであった。
全国から老若男女の夥しい数の救援ボランティアが集まっており、被災地域の人々との交流、ボランティア同士の交流があちこちに感動の波紋を描いていた。
被災地域に突如このような「よそ者」が一時的であれ流入し、信頼と協力の分かち合いが起こったのは、恐らくこの地域では初めてのことであったであろう。
このような救援活動の意味は、全国からの募金および救援が発した励ましのメッセージにあったのではなかろうか。教会もその一端に加えられたことを感謝したいと思う。
十日町教会が魚沼産コシヒカリのご飯を炊いて下さり、ボランティアは近所のスーパーで調達した惣菜で夕食をとり、寝袋で夜を過ごした。
全国の教会やキリスト教主義学校から派遣されてきたボランティアと交流の時を持ち、毎夜7時から新井純牧師の司会でもった祈祷会は感動的であった。
(山本将信報)

【4573号】牧師のパートナー

壁の穴
中谷郁美
(熊谷教会員)

「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』…」(Ⅱコリント6・1〜2)のみ言葉を贈られて、40才台半ばで、静岡教会で伝道師をしていた夫と見合い結婚をした。静岡の2年余りは忙しかったが、楽しかった。二人でいる時は、互いに自分の体を休ませる事で精一杯だった。その後、熊谷教会に招かれ、今、7年目を終わろうとしている。
わたしの愛唱聖句は、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった…」(イザヤ53・4)である。4年前、子供の時から患っていた慢性腎炎が悪化して、在宅での透析治療が始まった。1日4回、4~5時間置き、2Lの薬液を腹部のチューブで出し入れする。操作は至って簡単。しかし、体力、気力は確実に落ちた。
そんな私の傍らで牧師として、幼稚園の園長として日々を過ごす夫。素朴で、弱さを隠さない。「あるがまま」、「無理しない」が口癖だ。子供の頃は動物園の園長になりたかったとか、犬、猫、金魚の世話はもちろん、私の助けも黙々としてくれる。わたしは、素直に、感謝している。
一方、私は口うるさい。家事は夫に甘えてそこそこ。しかし、教会雑務では欠けがないようにと、あれもこれも。気持ちが先行して疲れ果てる。冷たい空気が漂う。「おれはいたっておとなしい人間だ。怒られないでくれ」と夫は言う。
ある夕礼拝前、言い争った。その後、「ドタン、バタン」と大きな音。夫は礼拝堂へ。私は恐る恐る辺りを見回した。壁に穴が開いていた。慌ててカレンダーで隠した。数日後、「何をしたの」と聞くと、「お前を叩くわけにもいかないから、壁を蹴った」と、悲しげな顔で言った。「恐ろしい人」と思った。暫くして、カレンダーを外して見た。粉々に砕けた壁、その奥に冷たい闇が潜んでいた。突然、「わたしだ。この穴をあけさせたのは、わたしだ」との思いが心を突き刺した。「もう止めよう。追い詰めるのは」。私は夫との生活のあり方に、思いを巡らし始めた。
「わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」(詩篇121・1〜2)は9年前私が夫に贈ったみ言葉だ。
夫は毎日曜、み言葉を語る。私はそのみ言葉に留まり、生きてきただろうか。キリストの眼差しを避け、自分の力で何かを埋めようとしていたのではないか。「壁の穴」の正体は「罪」だと知った。罪は絡みつく。「自分に拘らず、キリストを見続ければいい。ゆだねる事が課題だ」と、夫は自身にも言い聞かせるかのように言う。そんなある日、「罪を離れて立ち帰るなら、…罪を赦してください」とのソロモンの祈りの言葉が心に迫ってきた。「主よ。ごめんなさい」。涙が溢れた。心の深い所に静けさが広がった。
今日も夕食後、礼拝堂で十字架の下に立つ。夫のギターに合わせて精一杯賛美する。ああだこうだと話し、祈る。楽しくて、暖かい。キリストの恵みを味わう者として、二人はここにいる。

  • 共に仕えるためにPDF

    リフォユース最新情報はこちら

    International Youth Conference in Kyoto

    公募・公告

    日本基督教団年鑑2018年版

    日本基督教団 伝道推進室

    東日本大震災救援対策本部ニュース

    教団新報 archive

    教日本基督教団 文書・資料集 申請書等ダウンロードコーナー

    月間 こころの友