【4911号】委員会コラム 世界宣教委員会 世界の教会と共に 西之園路子

 世界宣教委員会は、日本基督教団から海外への宣教師の派遣、海外の教会から日本基督教団の教会あるいは関係学校や諸施設への宣教師の受入れに関わっています。また海外の諸教会、キリスト教諸団体との窓口となっています。

 ここ数年、世界宣教委員会で意識的に力を入れているのが、海外へのユース(青年)の派遣です。派遣できる人数には限りがありますが、広い視野を持ち、世界のキリスト者たちと共に歩んでいけるユース、次世代のリーダーたちが育ってくれることを願い、2019年夏は、台湾(I Love Taiwan Mission)、カナダ(バンクーバー交流&研修ツアー)、ドイツ(日独ユースミッション2019)、スイス&フランス(テゼ黙想ツアー)にユースを派遣しました。現地の教会や現地に遣わされている教団宣教師等の協力のもと、派遣先の教会青年たちとの交流や先住民の文化や歴史に触れる機会となっています。世界宣教委員会のFacebook(ecumeni0544)をぜひご参照ください。

 私的には、日本の教会が世界で孤立することなく、どのようにしてアジア、北米、ヨーロッパ、またアフリカ等の世界の教会と共働していけるかということに関心を持っています。また、世界に視野を広げ、異なる言語・文化・思想を持った人々と共に歩む教会・教団でありたいと願っています。

【4911号】事務局報

村川弘一氏(無任所教師)
 19年5月23日逝去、89歳。樺太生まれ。53年日本基督教神学専門学校卒業。同年より関東学院六浦高校、静岡英和女学院に務める。

 遺族は妻・村川博子さん。

 

永田哲郎氏(無任所教師)
 19年6月1日逝去、81歳。兵庫県生まれ。99年受允、01年受按。99年より北柏めぐみ、薬円台、北柏めぐみ、我孫子教会を牧会。

 遺族は妻・永田ふさ子さん。

 

吉新 緑氏(無任所教師)
 19年8月27日逝去、84歳。大分県生まれ。11年東京神学大学卒業。12年より18年まで杵築教会を牧会。

 遺族は息・吉新主門さん。

 

雨宮栄一氏(隠退教師)
 19年8月26日逝去、92歳。韓国・京城生まれ。53年日本基督教神学専門学校卒業。同年より山梨、阿佐ヶ谷東、東駒形教会を牧会し、中部学院大学に務め、03年隠退。

 遺族は妻・雨宮美枝子さん。

 

渡辺君子氏(隠退教師)
 19年8月27日逝去、89歳。東京都生まれ。65年日本聖書神学校卒業。同年より須賀川、山都、熱海教会を牧会し、02年隠退。

 遺族は夫・渡辺晋さん。

 

久保惠三郎氏(無任所教師)
 18年10月20日逝去、87歳。兵庫県生まれ。96年同志社大学大学院卒業。同年より神崎川、仁川教会を牧会。

 遺族は妻・久保恭子さん。

 

宇都宮秀和氏(無任所教師)
 17年11月29日逝去、83歳。神奈川県生まれ。62年青山学院大学卒業。65年より昭島、ベテル教会を70年まで牧会。

 遺族は妻・宇都宮雍子さん。

【4911号】宣教師からの声

受け継がれた「敬神愛人」のバトン

-名古屋学院創設者 フレデリック・チャールズ・クライン宣教師-

大藪 博康

(名古屋学院 名古屋中学・高等学校 宗教部長)

 アメリカ・ボルティモアにあるクライン博士の墓石には「仕えられるためではなく、仕えるために」(マルコ10章45節)と記されている。クライン博士は、神様のため、教会のため、人のため、そして名古屋の地にある男子校・名古屋学院のために、その命を最大限用いた。

 クライン博士(フレデリック・チャールズ・クライン)は1857年ワシントンで誕生。1866年ボルティモアに移住し、1873年(16歳)受洗(この年、日本では明治政府がキリシタン禁制を解除した)。1876年ウエスタン・メリーランド大学入学。1882年メソジスト・プロテスタント教会の日本派遣宣教師となり横浜地区伝道団監督に就いた。1883年メアリー・エリザベス・パットンと結婚し日本に渡った。横浜ではアメリカの伝道本部と連絡を取りながら財政全般、土地、学校、教会の運営に従事した。横浜、藤沢で伝道を開始し、ブリタン女性宣教師とともに、英語学校、日曜学校、禁酒会、教会づくりに取り組んだ。

 1885年(明治18年)クライン博士は伝道の実態調査のため、京都・大阪・名古屋を旅した。その旅で名古屋に滞在したとき、山根虎次郎と出会った。山根は名古屋に英語学校を作りたいとクライン博士に訴えた。当時の名古屋は「名古屋区」と呼ばれていた。人口約15万人。日本で第4番目の都市であった。

 ある日本人牧師がクライン博士に言った。「名古屋は保守的な城下町で仏教の力がたいへん強く、宣教師にとっては開拓の難しい不毛の地です」。この言葉がクライン博士の開拓者精神に火をつけた。「理想を実現するために一番困難な場所を選んで道を開くのが私の使命だ」。横浜は外国人居留地があり、宣教師や多くのアメリカ・ヨーロッパ人がいて伝道も盛んであった。しかし、名古屋は儒教と仏教、古くからの神社があり伝統的宗教を重んじる町。キリスト教は邪宗教であると考える人の多い町であった。そこにクライン博士は身を投じていった。名古屋学院設立は初めから茨の道であった。

 1887年(明治20年)7月11日「愛知英語学校」設立。50名募集して12名が集まった。民家を改造した校舎。校長クライン博士、校主山根虎次郎。開設からしばらくして、山根が言った。「クラインさん。ここは英語を教える学校です。キリスト教を教えては困ります。私の思想とも反するし、人々に嫌われます」。漢学者である山根は当時の名古屋の人々の思いを理解する人物であった。当時、英語を学ぶことが身を立て世に出る第一歩と考えられ多くの人が英語を学んだ。しかし宗教は伝統的なものを重んじるのでキリスト教はいらない。そのような人々の思いを山根はクライン博士に伝えた。更に県教育局から「教科から聖書を外すよう」と指示があった。県教育局長からも「14歳以下の生徒に公式に宗教教育を施すことは禁止する。教科課程から宗教の授業を外すならば開校を許可する」との指示。クライン博士は学校内外から反発を受けた。

 それらに対しクライン博士は「毎日正科として聖書による宗教教育を行う」、「教育は知識だけを教えるものではない、心も教え育てなければならない。そのための宗教でありキリスト教なのだ」と一歩も引くことはなかった。当時の総理兼外務大臣である伊藤博文に「直訴状」を送り、正式にキリスト教学校として認めてもらうことを訴えた。直訴は却下されたが、結果的に県教育局との折合いをつけて、申請書の「聖書」を「彜倫(いりん)道徳」と改め、県から宗教教育には干渉しないとのお墨付きももらい、名古屋英和学校が公認されることとなった。開設当時の仲間であった山根とは襟を分かつ形となった。ここに名古屋英和学校の教育の指標が「敬神愛人」と定まった。

 1888年7月11日、民家を改造した校舎が崩れるという不思議な出来事が起こった。開校からちょうど1年。幸いけが人はなかった。それをうけてクライン博士は本格的な校舎建設に乗り出した。建設資金を集めるためにアメリカに一時帰国した。1889年から西洋風校舎建築工事がはじまった。1890年、アメリカの教会で名古屋の学校のために集めた献金を携えてクライン博士が名古屋に帰ってきた。完成した西洋風の校舎は人々の目を引いた。

 クライン博士がどのように聖書や英語を教えていたか、それを知る手掛かりは少ない。第一期生の牧野義雄(英国で画家として有名になる)によると、全人格を通して教育し、愛情と信仰深い生き方を生徒たちに示したことが語られている。

 1893年、人々に惜しまれながら、病気治療のためにクライン博士はアメリカに帰国した。6年に満たない期間であったが、クライン博士の命がけの働きによって「名古屋英和学校(のちの名古屋学院)」は誕生し、歩みをはじめたのであった。

 その後、クライン博士はアメリカでメソジスト・プロテスタント教会の役職を歴任し生涯を神様と人のために捧げ尽くした。1926年メリーランド州バーウィンの自宅でこの世での働きを終え、神様の御許に帰った。

 明治の時代、日本全国にこのようなキリスト教学校が宣教師の尽力によって誕生した。宣教師の人格に触れ、多くの日本人が感化され、キリスト者となっていった。名古屋英和学校でも、クライン博士の生き方、信仰が生徒、教員に引き継がれていった。「敬神愛人」のバトンはその後、130年たった現在に至るまで受け継がれている。

(Kyodan Newsletterより)

【4911号】人ひととき 吉崎 優子さん 帰る場所があると 気づかせてくれた

 「あなたがたが選んだのではなく、神様があなたがたをこの学舎に選ばれたのだ」北陸学院短期大学保育科の入学式でこのような言葉を聞いて、学生時代に高岡教会で受洗した。

 卒業後は、浜松の教会近くに幼稚園を建てる牧師の働きを短期間、見てきた。その直後、郷里の氷見市に帰ってきて、富山県内のキリスト教保育園に2年ほど勤務。そののち地元、氷見市のアソカ幼稚園への話をもらった。仏教の幼稚園だった。住職はモンテッソーリ教育を目指し、クリスチャンの自分がそこで必要とされ、大きな葛藤と闘いながら37年間勤務した。子どもたちの「今日」と出会ってきた。吉崎さんは語る。「神様が、わたしをここに置いてくださった、そのことの不思議な意味を考えた」。

 それからは、教会が支えであった。長老として、教会学校教師として、高岡教会に仕え続ける。ところが、2018年12月と2019年5月、教会に送り出してくれていた夫と介護してきた義父の死を経験する。大きな喪失感と、信仰を持たずに召された夫を思いながら、神様、どうしてですか、と問い続けて5カ月間、礼拝を離れた。祈ることや聖書を読む力もなくなり、たびたび訪問してくれる牧師が頼りであった。

 そのような中、再び礼拝に出席したときは、座ったとたん涙が止まらなかった、と言う。ただいま、と礼拝堂に入った。そののち9月最初の祈祷会で、ヨハネによる福音書14章の御言葉を聞き心に激動を感じた。「心を騒がせるな。神を信じなさい」。今まで心揺るがせてきたことに対して、神様への信頼のない自分を痛感した。しかし、イエス様はこんなわたしを導いて天のすみかに場所を用意してくださる。それが何よりうれしかった。今の苦しみ以上に、主が伴っていてくださるとの喜びが倍増した。

富山県氷見市生まれ。長年幼稚園に勤務した。高岡教会長老、教会学校教師。

【4911号】我召されたり、故に我あり

 6月に開催された新任教師オリエンテーションに参加した。すでに本紙において報告されているように、新任教師がお互いに知り合い、交わり、恵み豊かな三日間を過ごすことができた。また、今回も教師委員会において良い準備がなされ、大変充実した内容であった。

 その中でも毎年楽しみにしているプログラムは「牧会講話」である。今年は小林眞教師(岩槻教会)が担当された。小林教師は講演において、50年にならんとする牧師としての豊富な経験の中から伝道者としての召命に応える姿勢として、聖書を正しく深く読むこと、教会形成に資する人間関係を構築すること、教会に仕えることなどを話された。毎回、このオリエンテーションにおいて自分自身の伝道者としての召命の恵みを新たにするが、伝道者の生涯は神の召しに応え続けていく生涯であり、伝道者としての歩みは自分の働きの上に立つのではなく、いつも神からの召しによって立たされているものであること、それは、「『人の正しさ』が壊され、『神の義しさ』が立つ」ことであると教えられた。
 
 伝道者として立たされた時、大先輩が話してくださった言葉は、「我召されたり、故に我あり」であった。一伝道者として、一信仰者として、生涯主の召しに忠実であるために、主の支えと導きとをあらためて祈らされたオリエンテーションであった。
(教団総会書記 雲然俊美)

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