【4897・98号】♦東京教区五支区共催教会教育研修会♦ 「かわった群れをつくりだすわざ」

 1月27日、松戸教会を会場に2018年度の東京教区五支区共催教会教育研修会が開催された。これは、教会学校教師など教会教育に関わる信徒向けの研修会として毎年開催されるものであって、今回は平野克己氏(代田教会牧師)を講師に、「主を誇りつつ、神の言葉を語ろう—説教・かわったこども、かわった群れをつくりだすわざ」と題して行われた。

 東京教区には、その中に支区を置いて教区の教務の一部を分担しているという特徴がある。そのため、教区の教育部は、各支区の教育部の連絡調整に関する事項を取り扱うこととされている。しかしながら、教区全体での学びや信徒同士の交流の場も大切なので、各支区が順に担当しながら五支区共催という形で教会教育研修会を開催し、教区内の全教会・伝道所に参加を呼び掛けるという方法で、研修の場を設けている。今年度は千葉支区の担当であった。

 一昨年度は「わくわくいっぱい!CSアイディア」と題して、講師から分級で使える様々なアイディアを教えてもらった。昨年度は「CSどんな礼拝してるかな?」をテーマに、教区内のいくつかの教会での子ども向け礼拝の実践例を録画ビデオで見ながら、工夫を分かち合った。そこで今回は、子ども向けの説教に焦点を当てての研修の時となった。

 CS説教は、一方で種まきにたとえられ、どれが芽を出すか、いつ芽を出すかわからないのだから、大胆に種を蒔くものである。しかしもう一方では、石を一つひとつ積み上げて建物を築いていくようなものでもあり、ゆっくり時間をかけて、ひと石、ひと石、積んでいく思いで語ることが大切だと、途中で映画の一コマの紹介を挟みつつ、語られた。

 我々は世にあって福音を聴き語る「かわった群れ」であるとも語られ、そのような者たちが26教会から96名参加した。 (春原禎光報)

【4897・98号】消息

鈴木 實氏(隠退教師)
 18年10月31日逝去、88歳。台湾・台北市生まれ。62年東京神学大学大学院卒業。同年より郡山細沼、弘前南、南国教会、南国教会大津伝道所(93年より高知東教会)を牧会し、03年隠退。
 遺族は妻・鈴木純さん。

 

板橋満男氏(隠退教師)
 18年12月28日逝去、86歳。栃木県生まれ。62年日本聖書神学校卒業。同年より馬見労祷、祖師谷教会を牧会し、06年隠退。
 遺族は妻・板橋朝子さん。

【4897・98号】宣教師からの声

日本初期における宣教師の働き

~仙台神学校(東北学院大学の前身)を設立した米国ドイツ改革派教会の宣教師たち~

野村 信

(東北学院大学宗教部長・文学部教授)

 鎖国とキリスト教禁令政策によって2世紀半に亘り日本を統治した徳川幕府の時代は、ペリー総督の率いるアメリカの軍艦の来日によって終わりを告げた。新たに登場した明治政府が1873年にキリスト教禁令の高札を撤廃すると、米国を中心とした国々からの宣教師たちが日本各地で公に福音伝道を開始した。各地にできた伝道の拠点には、志のある日本の若者たちが集まった。

 その中でも、早くから外国と交渉が行われた横浜は、後に横浜バンドと呼ばれる主要な伝道拠点が出来、ここに押川方義という松山藩出身の英学を志す若者がいた。彼は22才で洗礼を受けてキリスト者となり、伝道者を志し、まだ伝道が手薄な東北地方へ向かい、仙台を中心に布教活動を開始した。

 一方、次々と来日する宣教師たちの中でも、米国のドイツ改革派教会から派遣された宣教師W・E・ホーイは、キリスト教伝道と学校設立を目的として仙台に赴き、押川と共に1886年に牧師を養成する仙台神学校を設立した。同年、女子教育にも着手し、宮城女学校(現宮城学院)を設立した。

 

 ここでW・E・ホーイについて触れておこう。米国ペンシルベニア州で1858年に生まれ、フランクリン・アンド・マーシャル大学を、続いてランカスター神学校を卒業して宣教師を志し、1885年にドイツ改革派教会より日本に派遣される。来日して翌年には、押川と共同で仙台神学校を設立し、続いて同教会から D・ B・シュネーダーが来日して3人体制となり、仙台神学校と宮城女学校の教育をさらに強力に推し進めた。

 ホーイは、広範な伝道活動を続け、1893年には隔月号の英文誌『Japan Evangelist』を創刊した。1898年に喘息の療養のために中国の上海へ行ったことがきっかけとなり、1900年に日本での活動を辞して、中国伝道へ赴いた。清国の湖南地方で25年間活動し、神学校、青年教育の向上、教会設立、医療活動事業とめざましい働きをなした。しかし、1927年の中国内部の動乱から避難して帰国する船上で、宣教に生涯を捧げた69年間の幕を閉じた。

 

 さて、仙台神学校は、押川を院長とし、ホーイを副院長として、6名の学生で出発したが、翌年シュネーダーが加わり、徐々に学生数を増やし、6年後の1891年には「東北学院」と改称し、神学部以外にも、中等部、高等部を設置し、次々と教育制度を整え、学校体制を整えた。同年には南町通りに、「赤レンガ校舎」と親しまれる洋風の煉瓦造りの校舎が完成した。内部には、ドイツ改革派教会の外国伝道局財務R・ケルカーの名に因む図書室も設けられた。後に詩人・文学者として著名になる島崎藤村が作文の教師として赴任したのもこの頃である。

 押川は伝道活動を広げ、各地へと赴き、1891年に院長を辞して、シュネーダーに学校教育を託した。シュネーダーが第2代院長として就任し、さらに、ホーイが1900年に中国伝道へ向かうと、シュネーダーは、さらに35年間東北学院に在職し、東北学院を私塾的な教育機関からキリスト教主義教育機関に育て上げた。今日では12,000人の学生を有する幼児教育から大学院教育まで行う、私立では、東北随一の学生数をもつキリスト教学校となっている。

 

 D・B・シュネーダーの生涯についても触れておこう。シュネーダーは、ホーイよりも1年早くペンシルベニア州に生まれ、教育も同じく、フランクリン・アンド・マーシャル大学を、続いてランカスター神学校を卒業したが、4年間牧師として働いた後、妻と共に宣教師として日本に赴いた。1887年に来仙し、前年に開校した仙台神学校の教育に押川、ホーイらと携わった。シュネーダーは、2人が去った後に、幾多の試練を克服し、東北学院の発展に尽力した。

 その中でも最大の試練は、新校舎や寄宿舎が完成した後、1919年に起きた仙台大火であった。仙台は空前の大火に襲われ、東北学院の諸施設も焼失し、すべての努力が消え去るほどの悲嘆の中に置かれたが、シュネーダー院長は、自ら先頭に立って再建に奔走した。その結果、学内外の広い募金活動を得て、3年後の1922(大正11)年には新校舎が完成した。正面には「LIFE LIGHT LOVE」の3語が刻まれ、これは3L精神と呼ばれ、その後の学院の建学の精神として親しまれることになった。

 シュネーダー夫妻は、滞日50年の間に7回帰米し、日米間の国際親善、および学院の教育施設拡充のための資金募集に尽力した。さらに院長は、学院のキリスト教教育のために学校教会設立の必要を痛感していたが、ラーハウザー女史から得た5万ドルの献金を基に、南六軒丁に礼拝堂を建設した。

 この礼拝堂は、2011年の東日本大震災にも耐え、今日もラーハウザー記念礼拝堂として毎日の大学礼拝で用いられている。
(Kyodan Newsletterより)

【4897・98号】人ひととき 阿川小夜子さん くすしき恵み

 小夜子さんは、1926年に上海で生まれ、その後、青島に移って生活をしていたときに、母親を病気で亡くしたことから人生が大きく変わった。女学校に行くことが出来なくなり、19歳の時に家族のために萩の夫の所に嫁いで来た。家業の米屋ではオートバイで重い米を配達した。大変きつい仕事だった。

 夫が病気を患い長い闘病生活を送ることになり、男の子を一度も抱くことがなかった。どうすることも出来なかったと涙した。水子地蔵に熱心に罪の赦しを祈って来たが、何十年たっても心は暗闇に閉ざされたまま大きな重荷となっていた。

 そんな折、キリスト者となった娘からイエス・キリストの福音を聞くようになった。夢の中でイエスさまが現れ、その手には丸々とした男の赤ちゃんが抱かれていて、自分の腕に抱かせてくださった。「その子どもの重みとあどけない顔を一生忘れられない」という。イエスさまが自分の長年の苦しみをわかってくださり、罪を赦してくださったことがはっきりとわかった。その2ヶ月後のイースターの時に萩教会で洗礼を受けた。

 娘二人は受洗しているが、夫だけはまだ洗礼を受けないでいた。夫は肺癌を患い日増しに弱ってゆく中、聖書を読むようになり礼拝にも出席した。いよいよという時に連絡をして小林光牧師が駆けつけてくれた。その間、心電図の針はいったん止まったが、しかしまた動き出して病床洗礼が間に合った。もう1時間遅かったら、小林牧師は用事で宇部空港から飛行機に乗っていた。この時しかないというくすしき恵みの時だった。

 「思えば母が亡くなった時から、神さまのくすしき計画の中で生かされて来て、すべての苦労や悲しみが今は祝福となり感謝しかないです」と語った。

1998年萩教会にて受洗。家族皆クリスチャンで、孫の一人が伝道者となる。

【4897・98号】厚い交わり

 新しく教団の役についたことを知った北海教区の信徒の方々が「大変ですね」と声をかけてくれる。教団の事情に関心のある方々からは「教団はどうしてごたごたしてるんでしょうかねえ」とも尋ねられる。「北海教区のような教会の交わりが、教団全体としては乏しいのも一因と思いますよ」と答えたが、あまりぴんとこない様子だった。

 1月、毎年恒例の北海教区の「年頭修養会」に、子どもたちや教区外からも含め340名余が集まった。北海教区の全礼拝出席者数の約2割にあたる。一泊二日の集会に厳寒の北海道各地から時間とお金をかけて集まり、会場のあちこちで「一年ぶり!」「元気だった?」とあいさつが行き交う。北海教区の七つの地区が持ち回りで実行委員会を担当し、もう数十年になる。

 何年か前の年頭修養会で、クイズコーナーの企画があった。北海教区の諸教会にかかわる楽しい質問に、参加者全員が「〇」「×」で答える。最後に「自分の教会のある地区以外の教会の信徒を10名以上知っている?」との問いに、なんとほぼ半数が「〇」と答えた。

 北海教区には、こうした厚い交わりが根付いている。現実には教会は厳しい状況に直面している。だが、遠くにいても親身に覚えて祈りあう多くの友を知っている教会は、希望を失わない。この希望は教団にも根付くだろうか。(教団総会副議長 久世そらち)

  • 共に仕えるためにPDF

    宗教改革500周年記念事業

    International Youth Conference in Kyoto

    日本基督教団2017年度宣教方策会議

    公募・公告

    エキメニュカル協力奨学金 申込書類一式

    日本基督教団年鑑2019年版

    よろこび

    日本基督教団 伝道推進室

    東日本大震災救援対策本部ニュース

    教団新報 archive

    教日本基督教団 文書・資料集 申請書等ダウンロードコーナー

    月間 こころの友