【4923号】梅花学園の二人の創設者 澤山保羅と成瀬仁蔵 

自治独立の力で開かれた女子教育の新たな道

安田 行秀(梅花学園資料室)

 梅花学園の歴史は、山口県から神戸に出てきた一人の青年が、アメリカンボードのD.C.グリーン宣教師と出会ったことから始まります。その青年の名は澤山馬之進といい、1852年(江戸時代)に長州(山口県)吉敷の下級武士の家に生まれ、郷校「憲章館」で中国の古典や武道を学びました。

 1866年、澤山が14歳の時に、長州戦争があり澤山は吉敷隊の鼓手として出陣し、その時に近代的装備を持つ長州軍が圧倒的な勝利を収めるのを目の当たりにしました。その時に澤山は洋学を学ぼうと決意します。明治維新が起こった2年後の1870年に、澤山は洋学を学ぶために、兵庫県副知事の内海忠勝(元吉敷隊隊長)を頼って神戸に出てきました。欧米を視察していた内海忠勝は、洋学を修めるためには英語の習得が必要として、神戸で宣教活動をしていたグリーン宣教師を紹介します。澤山がグリーン宣教師の自宅兼教会に通ううちに、グリーン宣教師は彼の非凡な素質と恵まれた精神力を見出し、アメリカでさらに勉学を深めることができるように澤山を説得します。イリノイ州エバンストンに住むグリーン宣教師の兄サミュエル・グリーンに澤山を紹介し、兄の家からノースウエスタン工科大学予科で勉強できるように手配し、澤山は1872年に渡米します。

 澤山はサミュエル・グリーンの家族と生活を共にして、教会に通ううちにキリスト教への信仰を深め、エバンストン第一教会でパッカード牧師により、受洗しています。

 1875年に日本で宣教していたH.H.レビット宣教師が帰米して、澤山に出会い日本へのキリスト教布教を強く勧めます。澤山は日本伝道を決意し、残り1年の留学期間を聖書の学習にあて、名前を使徒パウロにちなんで「保羅」と改めました。1876年の夏に帰国し、大阪の松村診療所で通訳として働き始めます。

 松村診療所は、梅本町教会の宣教医アダムズが、梅本町教会の信者の日本人医師や薬剤師と共に心斎橋筋高麗橋通り角に開き、医療と伝道の場としました。梅本町教会(現大阪教会)は、大阪で最初に創立された会衆派教会です。その1年後に松村診療所の日本人スタッフや信者が中心となり独立自給の浪花教会を設立し、この教会で澤山は新島襄から按手礼を受けて初代牧師となります。

 1877年10月に梅本町教会と浪花教会の信者の間で女学校設立の話が持ち上がりました。1878年1月に梅花女学校(梅本町公会の梅と、浪花教会の花から名前をとった)が大阪府の許可を受け開校しました。特筆すべきは浪花教会と同じく日本人信者による自治独立の力で女学校が設立されたことです。成瀬仁蔵と小泉敦の2名の日本人教師、レビット宣教師とスティーブン女史の2名のアメリカ人教師、15名の生徒で発足しました。

 澤山はキリスト教主義を建学の精神に掲げ、女学校の理事的立場でリーダーシップを発揮しました。発足の翌年(1879年)にコルビー宣教師を専任宣教師として迎えることにより、教育内容を飛躍的に向上することができました。コルビー宣教師はマウントホリヨークを卒業し教員生活を経て、アメリカンボードの宣教師募集に応募したのです。梅花女学校の学科課程はマウントホリヨークを範とし、リベラルアーツの全人教育を実践しました。コルビー宣教師の指導により、独立、倹約、忍耐、奉仕などマウントホリヨークの精神が女学校に生かされました。教師も生徒も一生懸命に勉強し、多くの人々の献身的な努力により梅花女学校は発展していくことができました。

 梅花女学校創立に関わった成瀬仁蔵は、澤山保羅と同郷で、「憲章館」の6年年下の後輩でした。憲章館を卒業して山口県教員養成所へ進み、その後に小学校の教員をしていましたが、自己の信念に基づく新しい教育をしたいという夢を持っていました。1877年夏に郷里に戻っていた澤山と運命的な出会いをします。

 成瀬は、澤山から大阪で女学校を作るという構想があるということや、アメリカに留学した話を聞き感動します。澤山を追いかけて大阪に出て、キリスト教にもすぐに共感して洗礼を受けています。梅花女学校の設立が決定すると、すぐに校舎に使用する借家を探し出し、開校に必要な校則、諸規則を作成しました。専任の教師としてだけではなく、教材の準備や学校のすべての事務を引き受け、校舎の管理まで一人で行っていました。このような成瀬の奮闘のおかげで、1年後には専用の校舎を取得することができ、生徒も順調に集まるようになりました。ただ校舎を取得しても、改修が必要であり、多額の負債が残りました。

 その負債を解消するために、奈良の富豪から寄付を受けたのですが、自給自立精神を貫こうとしていた成瀬はそれを許すことができず女学校を辞職して、キリスト教の布教に専念することになります。新潟に布教に向かった時に、かの地で女学校の設立に関わることになるのですが、やはり大阪とは事情が違い大変な苦労をすることになります。

 自分の力の限界を感じた成瀬は、1890年に新しい教育の姿を求めて渡米します。アメリカではアンドーヴァー神学校・クラーク大学で学び、各地の大学・カレッジ・師範学校を訪問し、同時に教会、社会施設、工場の女子労働などを視察して見聞を広めました。1894年に帰国し、その後すぐに梅花女学校で校長として復帰します。成瀬は留学で得たアメリカ流の教育を梅花女学校に取り入れ、さらに発展させることができました。

 成瀬は女学校での成功をもとにさらなる高等教育機関である女子大学の設立をめざそうとしました。しかし創立以来20年を経た女学校の体質を変えることは容易なことではありません。梅花女学校での女子大学設立を諦めた成瀬は1896年に女学校を辞し大学設立に奔走します。1901年に成瀬は政財界の有力者や多くの人々の援助を得て、女子総合大学の先駆け「日本女子大学校(現日本女子大学)」を東京で開校します。澤山から成瀬に受け継がれた篤い思いが社会を動かし、女子教育の新たな道が開かれたのです。

(Kyodan Newsletterより)

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