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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4901・02号】イースターメッセージ イエス様は、復活してくださいました 岡本拓也

2019年4月27日

しかし、兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」 《ルカによる福音書 15章29~32節》

生と死を考える春

 イースターの喜びを申し上げます。寒かった冬が終わり、陽の光に力強さが感じられる春、草花が緑を増し、鳥のさえずりや花の香りにも生命の躍動を感じます。

 生命が繋がっていくことと、イエス様の復活の命を結び合せ、私たちはイースターを明るく喜ばしい時として過ごします。しかし実のところ、死や復活について私たちは何を知っているでしょうか。

 聖書の中で生き返った人はイエス様だけではありません。私が特に印象深く覚えているのはルカによる福音書15章にある「放蕩息子のたとえ」に登場する放蕩息子です。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」(15・32)。この息子は生命を失ったわけではないにも関わらず「生き返った」と言われることに、復活を考える要点があるように思います。

 ここで考えられている「生」は、すなわち繋がりということです。父親にとって、この息子はどこへ行ったのかもわからず、便りもなく、財産も分けてしまっているため、完全に繋がりが断たれていました。この関係の断絶を、父親は「死」と表現するのです。

 

ある信徒さんのこと

 私の奉仕する教会に、90歳を越えても毎週教会に来られ、自分の役目として受付に座ってくださる方がおられました。一人暮らしで身寄りもなく、生活保護で生活をしておられましたが、徐々に認知症の症状が現れ、ケアマネージャーさんと相談して老人ホームに入ることになりました。超高齢社会の今、ケアマネージャーさんが手を尽くして入れる施設を探してくださり、入居できる施設が見つかったときは、ほっとしました。しかし、すべてのことが済んだ後になって、家族以外は面会できない規則があることがわかりました。施設の管理の都合によって電話も取り次ぐことができないというのです。更には、その人が元気かどうか、いえ、生きているのか、亡くなったのかさえ個人情報保護のために教えることはできないと言われました。

 確かに、思いもよらない犯罪が起こる今の日本において、入居者本人に限らず、施設を利用しておられる方々の安全や、個人情報の保護を考えるとそのような規則が必要なことは理解できます。しかし、一人の人間の社会的な繋がりをこうも一方的に断ち切ってしまうやり方に、何とも言えない非人道的な印象を禁じえませんでした。施設の職員やケースワーカーと何度も交渉しましたが、信徒さんとの繋がりを回復することはかないませんでした。「手紙は受け取る」とのことでしたので、藁にもすがる思いで、お手紙と教会の住所を印刷した返信用の葉書を施設の職員に託しました。

 

復活は出来事

 その人との関係が突然絶たれた喪失感は、愛する家族の死に直面したかの様でした。私はその時、息子との関係の断絶を死と表現した父親の気持ちがわかったような気がしました。肉体の滅びは死の始まりであり、関係の断絶によって死は完成するのです。

 その信徒さんとの関係が断たれたとき、何とかこの繋がりを取り戻すことはできないかと考えました。それは、イエス様が十字架に死に、墓に葬られた後、ひたすらイエス様のお墓に行くことを待っていたマグダラのマリアの心境にも通じるように思います。一方的に関係が断たれ、自分の力ではどうすることもできない無力感と孤独。マリアは生きた心地がしなかったことでしょう。

 復活とは、そのような関係の断絶が回復されることです。だとすると、復活は出来事として両者の間に同時に起こることであり、どちらか一方にのみ起こることではありません。そのことはヨハネ福音書が伝える、復活したイエス様とマリアとの出会いの場面によく表れています。復活のイエス様と出会っていながらそれがイエス様とはわからず、イエス様の「マリア」という呼びかけに対し「先生」と答えることで初めて復活を悟ったマリア。名前を呼ぶことによって繋がりが回復し、マリアの中にイエス様の復活が完成したのです。

 このことは死が肉体の滅びに始まり、関係の断絶によって完成することに対応しています。事実として肉体が生き返るだけでは、復活は完成しないのです。

 

汝殺すなかれ

 死は断絶であり、生は繋がりである。パウロはこのことを部分と体という比喩で表現しています(一コリ12・12~26)。私たちは皆一つの体を構成する部分であって、互いに補い合うからこそ体という全体が生きたものになっています。一つの部分が他の部分を切り捨て、部分でありながら全体になろうとする時、その体は死んでしまいます。内輪で争っていてはその国は成り立たないと言われたイエス様の言葉も思い出されます。

 ある日、私が教会の郵便受けを開けると、一枚の葉書が届いていました。老人ホームの職員に託した、あの葉書です。脳梗塞の後遺症で斜めに偏った震える文字を見た瞬間に、私の中にその人が生き返ったかのような喜びが溢れました。姿を見ることはできないが、確かにある喜びの知らせ。福音とはこういったものなのだと思いました。私はこの生きた繋がりを断たないために、急いでお返事を書きました。

 生きることは繋がることであり、復活は結び直すことです。さらに言うと、分断は殺人です。私には、排他主義と断絶のはびこる今の社会は、危篤状態のように思えます。

 イエス様は、そんな私たちにもまだ望みはあるということを、完全な死からの復活によって示してくださいました。イエス様の復活の喜びに与るために、私たちもまた、断絶を繋がりに変える命の業に参加しなければならないと思います。 (南住吉教会牧師)

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