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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4573号】メッセージ

2005年3月5日

マルコによる福音書 八章三一~三八節

手をかけさせない神 古屋博規

イースターを前にしたレントの季節を迎えました。私たちは今、悔い改めと和解とを得て、共に聖餐に与るために、信仰への入門・再入門に備え、全ての者が原点に向き合うように導かれています。古代教会の人々は、四〇日間の修練(レント)の期間に、悔い改め・断食・祈りをもってこの時を迎えたと言われます。

執り成し

「人生は失敗と見ゆる処にて成功する。私が成ろうと熱望したのに成り得なかったそのことが私を慰める」(ロバート・ブラウニング)。この詩は、物事は成功だけでは判断できないことを教えてくれます。愛せる者を愛するということは簡単ですが、愛せない者を愛するという難しさを問われていることにも通じるような気がします。人間の営みの中に起こってくる様々な人間の振る舞いにも、神様は私たちと共にいまし、イエスの執り成される業を通して、私たちを原点に立ち返らせて下さることを覚えます。

手をかけさせない神

H・ナウエンは「傷ついた癒し人」の中で、「イエスは、健康と解放と新しい生への道を開くために、自分の身体を引き裂いて与えることにより、この物語に新しい豊かさをも与えられた」と言います。私たちに降りかかってくる、疎外・離別・孤立・孤独という、人間の傷のなかで最も苦痛なものが、驚くことに自らを傷つけている場合があります。この自分の痛みや苦痛が受け入れられ理解されたなら、自己否定はもはや不必要となるのですが、主イエスの受難と、復活の告知がもたらしたペトロの信仰をみてみますと、「あなたは、メシアです」(二九節)というペトロの姿勢が出て来ます。「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」(ローマ一〇章一〇節)と言われるとおり、確かに、ペトロは主イエスをキリストと告白しました。ところが、主イエスが、人の子の受難をしめすことで、ペトロの思いはがらりと変化します。せっかくイエスを主と告白しつつも、舌の根も乾かないうちにイエスを脇へと引き寄せてしまう様が伺えます。そんな変わりやすい、移ろいやすい人間であるにもかかわらず、顧みて下さる方がいるのです。「そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは」(詩編八編五節)
「それからイエスは、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ八章三一節)と弟子たちに教え始められると、ペトロは、イエスを、自分の方に引き寄せ、疎外されているかのように痛みを示して否定の意志を示します。彼は、イエスはキリストと告白したものの、キリストの栄光の場面だけを考えて受難を望まなかったのです。それにも増して、ペトロは、イエスの教えに反抗して自己主張をしました。イエスの受難は、イエスとペトロの間の私的な事柄ではなく、すべての人に関わる公的な重要問題です。神の御心に敵対し、神の計画から人を誘惑に誘い、苦しめ、殺そうとしているペトロを、イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(三三節)と指摘して、ペトロに手をかけさせようとはしませんでした。

だからこそ

キリストに従うということは、生涯、イエスは主である、と告白し続ける事であります。イエスは、「わたしに従いなさい」(三四節)と、イエスに従うよう繰り返されます。自分が捨てられますか?と問われたなら、それは、禁欲主義的な否定ではなく、自己執着、自己信頼、自己追求などの自己目的化する思いを越えて、神に聴き、尊び、求め仕えることを積極的に目指すことだと言えるでしょう。私たちは、人には言えない苦悩や、弱さ、不完全さを持っています。それ故、自分は誤った生き方をしてはならない存在であると意識してしまいます。だからこそ、自分の十字架を背負って、キリストに従うためにあらゆる犠牲をもいとわないで、自分を捨てよと、イエスは自己中心性を厳しく否定されます。手をかけさせないとは、神の思いを越えないで、人の思いにとらわれないことです。それは、本当に、なかなか出来ることではなく、自分を愛するが故に難しい時が多々あります。
キェルケゴールは「死に至る病」の中で、死そのものが絶望ではなく、自分ではどうすることも出来ない淵に、陥ってしまうことが絶望だと言いました。絶望する時、自分を否定することが起こります。自分が自分であることがいやになり、ついには自殺までへと追い込まれ、人は手をかけてしまうのです。自分をもっと大きくしよう、自分を前に出そうと、他人を押しのけ、自分が絶望していることにも気がつかないで、自分自身の中で絶望に至ってしまいます。ペトロは、自分や周りに無関心となり、イエスを引き寄せ自分を大きく見せようとしたのです。主イエスは、そんなペトロにしっかりと向き合い「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(三四節)と応えておられます。「自分の十字架を背負う」と言うことは、自分の中にある醜さやいたらなさ、弱さ、欠け、破れを恥ずかしいことと思わないで、それを表に出して、ある時にはそのことを誇りにしながら歩いて行くことだと思います。神さまから与えられた現実から、逃げることなく、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇って」(Ⅱコリント一二章九節)歩くことだということです。

にもかかわらず

先日の教師研修会の折り、年輩の先生方が、ご自分の伝道牧会のあしあとを振り返り、「あと○○年したら退かせていただきたい」と、後進の者たちに伝えておられました。無牧化しつつある地方教会の宣教、絶望しそうになる牧師の抱えている宣教のフィールド、都会のドーナツ化現象、これらの課題にどう向きあったら良いのでしょうか。実は、主イエスが弟子であるペトロに語りかけたことは、現代の宣教を担って行こうとする牧者への語りかけの様にも聞こえます。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(三四節)というイエスの言葉に、実際の私たちの現実は、従いきれず、手をかけようと自分に執着してしまう姿を隠せません。にもかかわらず、主は、私に向かって振り返り、手をかけさせまいと、「振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われ」(三三節)イエス・キリストの十字架のもとへと、私を引き戻して下さるのです。
(小石川白山教会牧師)

 

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